はじめに
江戸時代に突如、出現するというジャンル”南画”。
“南画”という名前を皆さんも一度はお聞きしたことはあるのではないでしょうか。
でも、パッと出のものだし、ただの流行でしょ?伝統なんてないんでしょ?と思うあなたに伝えます!!
実は由緒あるものだったんです!
今回はそれを取り上げ、南画とは何か。どういうものを南画というのか。代表作、誕生の歴史的経緯などを分かりやすく解説していきます。では、次項から詳しく解説していきます。
南画とは?

南画ってなんだろう?

その前に気になることはありませんか?

“南”があるなら”北”もあるの?

あります!!
それが「北宗画」です。つまり、「南画」の正式名称は「南宗画」なのです。
南宗、北宗の言葉のはじまりは禅宗です。禅宗の起こりが南北で分たれ、南が正統とされたことからはじまります。
ちなみにこの考えは明の文人であり画家である董其昌(1555-1636)が「画禅室随筆」にて提唱した「南北二宗論」からきています。宮廷画家を北宗画とし、文人(士大夫になった知識人)の描いた遊戯的な絵を南宗画と区別したことからはじまっています。

それなら、偉いのは宮廷に仕える北宗画家の方じゃないか?
そうです。その通りです。確かに宮廷に仕える画師というのはお金には困りませんし、名誉もあります。
それであるならば、北宗画の方が偉いという感覚になってきそうですが、こと文化についてはお金を稼ぐものと感覚がなく、高官が余った時間でさらさらと描いた素人絵が尊ばれました。それは、絵のうまさ以上にそこにある精神性を重視してからに他ならないのです。
とはいえ、科挙制度があった中国において、武人より文人のほうが尊ばれていました。その方々が担った絵画が文人画(高官が余った時間でさらさらと描いた素人絵)であったのです。
思い出していただけると分かると思いますが、この論を提唱したのは董其昌です。つまり、文人が初めて言及したということになります。そんな方々がどちらを偉いと思うのかはもうお分かりいただけると思います。

そう!南宗画です!!
つまるところ、自らの正当性を示すために南宗画の方が位が高いということを宣言しているのです。事実として文献にはその文章が残っています。しかし、文献にあるからといって、それが正しいかどうかはまた別の問題です。画論においては儒教や禅宗など、宗教的なものも付き纏うのでもちろん思想的な問題も含まれます。

ということは、自分たちの絵を高く売る(評価させる)ためのポジショントークだった側面もあるんですね!
なぜ、ブームが生まれたの?
さて、ここからが本題です。
なぜこの南画が、江戸時代の日本で爆発的なブームとなったのでしょうか?
それを解説していきます。
その一つの理由は、黄檗宗の開祖・隠元隆琦(いんげん りゅうき)の来日や、清代の画人・沈南蘋(しん なんびん)によってもたらされた南蘋風と呼ばれる新しい画風。つまり、「明・清時代の新しい文化(明清画トレンド)」の衝撃にあったのです。
当時の日本の画壇(狩野派など)は、型にハマった古い様式が続いて停滞気味でした。そこへ、中国から全く新しい絵画表現やカルチャーがどっと押し寄せてきたのです。
この「明清画ブーム」からは大きく分けて2つの新しいビッグウェーブが生まれたのです。
- 写実・スケッチを追求したグループ(沈南蘋・円山応挙など) 沈南蘋が伝えたリアルで鮮やかな花鳥画に影響を受け、写生を重視するスタイル。
- 教養と精神性を追求したグループ(池大雅・与謝蕪村など) これが今回取り上げている「南画(文人画)」です!
南画ブームを後押しした「マニュアル本」の登場
こうした文人画が知識人から大衆へ広まった決定的なきっかけとは何だったのでしょうか?
それは『八種画譜』や『芥子園画伝』といった中国の画譜(絵の教科書・木版画教本)が日本で出版されたことでした。
プロの画家に弟子入りしなくても、本を一冊買えば「中国風のおしゃれでセンス溢れる絵の描き方」が独学できるようになったのです。これはもう革命的でした!!
さらに、日本には中国のような「科挙に受かった官僚(文人階級)」がいませんでした。
だからこそ、武士、商人、医師、学者たちが「中国の文人文化への強い憧れ」を抱き、自ら詩を詠み、画譜を見ながら南画を描くという熱狂的なブームが巻き起こったのです!!
おわりに
次回は、この「隠元隆琦と沈南蘋が日本美術界に与えた衝撃」と、江戸の文人たちの学習の背景を深掘りします。作者や作品を取り上げながら解説していきます!!
続きが気になる方は、ぜひ「スキ」やコメントで教えていただけると嬉しいです!
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