はじめに
自己中と聞くと、みなさんはどう思うだろう?
自分のことばかり考えている嫌なやつ。関わりたくない。他人のことを考えて行動できない。社会不適合者だ。
と。まあ、だいたいは悪い評価だと思う。でも、本当にそうなのだろうか?一度立ち返って考えてみたい。
ジコチューという言葉
みなさんも学生時代、よく耳にしてきたことだろう。ジコチューという言葉。(”ジコチュー”は今回カジュアルに批判するときの言葉として用いる。厳密に言いたいときは自己中心的思考とする。)言ってきた側、言われてきた側、どちらもいるだろう。学校でその言葉が飛び交うとき、だいたい悪口である。なぜか。空気を読めないヤツと思われるからだ。扱いづらいということだ。
しかし、これを言う側もジコチューではないだろうか。自分の気持ちをただ言っているだけ。多数決で勝っているから、批判されない。むしろ、「そうだそうだ!!」という言葉が出る。それを理解しているから発言できるのだ。これもジコチューではないだろうか?
今回のこの意見は別にジコチューを批判したいわけではない。むしろ、それを推奨しているのだ。そもそも人間は欲深い生き物。欲望に忠実だ。快楽にはあらがえない。
だからこそ、ルールがある。みんな利他的であればこんなルールなど必要ない。でも、ルールが必要だった。なぜか?それは、人間の本質は自己中心的思考に基づいているからだ。生物である以上、自分、家族の生存を第一に考えるものだ。つまるところ、自己の範囲には仲間意識のある集団までが含まれるのだ。今回は家族という単位で見てみることにする。自己が帰属している社会の最小集団が家族である。まず、我々はそこにアイデンティティを覚えるのだ。この範囲において、どうやってでも守りたいという強い意識が芽生える。
ジコチューの肯定
さて、前章の続きになるが、家族を守りたいという思いが悪いことだろうか。そんなわけないよね。自分にとって大切な人は守りたいじゃないか。それを批判することなど出来ない。それをまず、認めよう。
ジコチューという言葉にはその根本的な思想が含まれていない。仲間を愛すことが悪いとでもいうのだろうか。そして、自己中心的ということは自分の興味、仕事、家族を大事に思う気持ち、欲望が底にはある。欲望、つまり、ジコチューならぬ自己中心的思考は人間の本能であり、生きる意味であるのだ。やりたいことはやればいい。おいしいものは食べたい。好きな人と一緒にいたい。セックスしたい。それ自体が悪いという訳ではない。
そして、また、大事なことがある。人間は社会的動物だということである。本当に社会のためにならない他人のためにならない自分本位的な行動なんて起こすのだろうか。もちろん、犯罪など、そういった危険性はある。そのためにルールがあるのだ。この法治国家である日本で本当に自己本位的行動がとれるものがどれだけいるか。わたしが言いたいのは好奇心を捨てるなということである。他人に否定されたからといって好奇心は捨ててはならない。その好奇心こそがもしかしたら社会をよくするかもしれない。そうした好奇心もいってみればエゴだ。科学者もエゴだ。ただ、知りたいという欲望に忠実だからこそ突き進んでいく。それが、結果的に社会の役に立つのだ。
最初から、ジコチューはいけないというのはただの思考放棄だ。
だから、わたしはこう言いたい。
ジコチュー大いに結構!!ジコチューこそが社会を救うのだ!!


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