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第2部:ガンダムと浮世絵-スポンサーの要求と制約-

はじめに

前編(第1部)で綴った通り、かつての私は印刷室の冷たい空気の中で、ドイツ製の巨大な機械「ハイデルベルク」の完璧なリズムに追い詰められていました。分刻みの納期、週6日の勤務。縮小し続ける印刷業界という「沈みゆく船」の中で、私は自分の輪郭が削り取られていく恐怖に震えていました。

なぜ、私はこのスピードに適応できないのか。なぜ、このシステムはこれほどまでに非情なのか。

その答えのヒントをくれたのは、中島りも氏のYouTubeチャンネル『セリフと演出から読み解く機動戦士ガンダム解説』でした。そこで解き明かされる富野由悠季監督の「商業的制約との戦い」は、かつて現場で立ち往生していた私自身の姿と、あまりにも鮮烈に重なったのです。ここからは、アニメーション、江戸美術、そして私のいた印刷現場という三つの「制作現場」を横断しながら、システムという名の暴君に抗うための知性を検品していきたいと思います。


1. スポンサーの要求と葛藤

表現とは、真空の中で生まれる純粋な産物ではありません。美術史学が証明し続けてきた通り、そこには常に「版元」や「スポンサー」という名の絶対的な経済的制約が横たわっています。

かつて江戸の浮世絵師たちが、版元の商業的野心に従って「売れる型」を強要されたように、現代のアニメーション、とりわけ『機動戦士ガンダム』もまた、玩具販促というビジネスモデルの呪縛の中にありました。

富野由悠季監督は1979年の『機動戦士ガンダム』(1st)で物語を完結させ、ロボットというシステムからの「自立」を描き切ったはずでした。しかし、システムはそれを許しませんでした。1985年、スポンサーは『機動戦士Ζガンダム』という「商品」としての続編を強いたのです。これは、私が印刷現場で経験した不条理と構造的に同一です。薄利多売の現場において、職人のこだわりは「ノイズ」と見なされ、機械の回転速度に従順であることが唯一の正義とされる。富野氏が「ガンダム」という名を連呼させられた屈辱は、現場の人間が数字と納期のために己を削る痛みと重なっています。

2. ロボットからの脱出:1stの否定としての『Z』

富野氏は、ガンダムをおもちゃの宣伝道具として扱うスポンサーの意向に激しく抵抗しました。本来は「ロボットからの脱出」がテーマだった1stを無理やり続けさせることは、前作の否定を意味します。

その結果、『Z』は主人公が再びロボットの中に、そして戦いというシステムの中に「閉じ込められる」物語とならざるを得ませんでした。皮肉なことに、この閉塞感こそが後の『新世紀エヴァンゲリオン』を生む土壌となりました。カミーユ・ビダンがモビルスーツに精神を浸食され、発狂する姿。それは、私が印刷機の轟音の中で「正解」を叩き出し続けなければならなかった、あの息苦しい日々の象徴でもあります。

3. 西洋の皮を被った「日本」という病理

ガンダムの舞台は宇宙であり、地球連邦という西洋的なSFの体裁をとっています。しかし、その内部に流れる論理は驚くほどドロドロとした「日本的組織論」です。

西洋的なSFであれば主人公は「個」の意志で立ち上がりますが、日本的な物語では常に「血筋(家系)」や「村社会(軍隊)」の論理が支配します。西洋の労働史(典拠:ハインツ・コフート『自己の分析』)において、仕事は契約に基づく「Job(職務)」ですが、日本は組織という大きな身体への「Membership(同化)」が求められます。『Z』が放送された1985年当時、この同化圧力は「美徳」として称賛されていました。

4. 江戸の美術は消費物である

この「制約」の構造を美術史的に見れば、江戸時代の浮世絵こそがその先駆者です。現代でこそ「芸術」と呼ばれる浮世絵ですが、当時は完全なる「大量生産品」としてのビジネスモデルでした。

浮世絵は「版元・絵師・彫師・摺師」の分業制であり、そこには厳格な納期と売上目標が存在しました。まさに現代の「工場」や「アニメ制作現場」と同じ構造です。職人の技量は、個性の発露ではなく、版元の野心を効率的に複製するための「手段」でした。浮世絵に宿る美しさとは、自由な表現の結果ではなく、過酷な制約の中で「どうやって自分の情念をねじ込むか」という、職人たちのふてぶてしい生存戦略の結果なのです。

5. 「見て覚えろ」という沈黙の暴力

日本の指導文化には、「不立文字」という禅の極意を悪用した「見て覚えろ」という名の暴力が根強く残っています。これが組織に持ち込まれた瞬間、指導者側の「言語化の努力」や「教える責任」の放棄へと変質します。

「言葉にしなくても察しろ」という非分離の人間観は、負の側面としての「忖度」を強制します。私が印刷現場の轟音の中で直撃を受けたのは、この沈黙の暴力でした。怒られるから聞けず、でも仕事は進まない。指導者が言葉を捨てた空間で、私は精神を摩耗させていきました。

6. カミーユ・ビダン:過剰適応という名の自壊

主人公カミーユは、この「日本的組織」の最大の犠牲者です。彼のニュータイプ能力——敵の殺意を察し、死者の思念を拾い上げる力——は、究極の「忖度」の完成形です。

才能があるからこそ、システムに深く食い込まれてしまう。カミーユがモビルスーツを己の肉体のように操ったのは、自己の境界線を削り、システムに魂を浸食させた結果です。日本社会は、自分を空っぽにしてシステムに染まることを「プロ意識」と呼びますが、それは緩やかな自殺に他なりません。

7. 「壊れなかった」魂:不器用さという救い

私は印刷現場のスピードに適応できず、敗北しました。しかし、今ならわかります。もし私がそこで器用に適応(忖度)できていたら、私の感性は今頃焼き切れていたでしょう。「才能があるのに壊れる」という運命から私を救ったのは、他でもない、私の「不器用さ」でした。自分を壊してまで「部品」になりきることができなかったからこそ、私は今、自分という人間を保てているのです。


結論:同化を拒むための「知性の盾」

私たちは今、一つの真理に辿り着きます。「混じり合うこと(同化)は、死を意味する」

日本的な「空気の読み合い」は、個の消失を前提としています。カミーユが守りきれなかった「自分と世界の境界線」を、私たちは自らの知性で引き直さなければなりません。

組織と対等な「契約」を結ぶこと。沈黙を武器として使う場所から距離を置くこと。富野氏が『ターンエーの癒し』で綴った再生への道筋も、この「境界線の再構築」でした。

境界線を作ることで個を確立し、自立して生きることが令和の今、求められていることなのです。


【参考文献】

富野由悠季『ターンエーの癒し』角川文庫 2000年5月

小林忠・大久保純一『浮世絵の鑑賞基礎知識』至文堂 1994年5月

ハインツ・コフート『自己の分析』(みすず書房)

中島りも『セリフと演出から読み解く機動戦士ガンダム解説』Youtubeチャンネル

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