※アイキャッチ画像はGeminiより生成。
1. 2020年を振り返って:静まり返った春の記憶
2020年という年を、私たちはどう振り返るだろうか。
それは、昨日までの当たり前が、音も立てずに崩れ去った年だった。1月、ダイヤモンド・プリンセス号のニュースが流れ、3月には世界中が「パンデミック」という言葉に飲み込まれた。そして、日本中を深い喪失感と恐怖に叩き落としたのが、志村けんさんの急逝だった。
多くの人が「初めてコロナを憎いと思った」と語るあの春。街から人が消え、誰もが家のなかで、目に見えない死の気配に怯えていた。あの異様な静けさのなかで、私たちは単なる娯楽ではない、何か「心の拠り所」を必死に求めていた。それが、後に社会現象となる『鬼滅の刃』への熱狂、あるいは「信仰」の始まりだった。
2. 災厄の具現化としての「鬼」
コロナというウイルスは、形がなく、言葉も通じず、ただ理不尽に命を奪う。その「正体不明の恐怖」が蔓延するなか、人々は無意識に、その恐怖を打ち倒すべき具体的な形――「鬼」に投影した。
『鬼滅の刃』のヒットが、緊急事態宣言下での動画配信や志村けんさんの死というタイミングと完璧に重なったのは偶然ではない。人々にとって鬼を討つ物語は、自分たちの日常を壊した災厄(コロナ)を根絶したいという、痛烈なまでの願望の受け皿となった。鬼は、単なるファンタジーの敵ではなく、私たちが今まさに直面している「絶対的に倒すべき相手」そのものになったのである。
3. 「断絶」がもたらす安心感と信仰心
本作が他の少年漫画、あるいは近年のエンターテインメント作品と決定的に一線を画すのは、その徹底した「断絶」の構造にある。
昨今の物語では、「敵にも事情がある」「昨日の敵は今日の友」といった、多面的な正義や和解が好まれる。しかし、『鬼滅の刃』において、鬼が裏切って人間側につくことは、ついになかった。
一度一線を越えて人を喰った者は、二度と人間側には戻れない。鬼にも人間だった頃の悲しい過去はあるが、それは決して免罪符にはならない。主人公・炭治郎は鬼の悲しみに寄り添い、慈悲の涙を流すが、それでも首を斬る手は決して止めない。この「理解はするが、決して許さない」という厳格な境界線。この揺るぎない勧善懲悪こそが、正解の見えない不安の中にいた人々に、宗教のような規律と安心感を与えたのである。
4. 卑怯なラスボス、魅力なき「災害」
ラスボスである鬼舞辻無惨には、カリスマ性も美学も、誇りすらも存在しない。彼は最後の最後まで卑怯で、保身のためなら部下を惨殺し、窮地に陥れば泥を啜ってでも逃げようとする「器の小さな男」として描かれた。
通常、大ヒット作のラスボスには、どこか尊敬できる部分や「悪の美学」が求められるものだが、無惨にはそれがない。しかし、これこそがこの物語を完成させた要因だ。彼は「理解すべき他者」ではなく、ただ排除されるべき「理不尽な災害」そのものだったからだ。コロナウイルスに人格や魅力がないように、無惨もまた、魅力のない「純粋な悪」でなければならなかった。彼が徹底的に卑怯だったからこそ、読者は一点の迷いもなくその滅亡を祈ることができた。
5. 呪術・チェンソーマンとの比較:なぜ「鬼滅」だったのか
同時期にヒットしていた他の人気作と比較してみると、『鬼滅の刃』がいかに「異質」だったかが見えてくる。
例えば、『呪術廻戦』や『チェンソーマン』もまた、怪異や悪魔を狩る物語だが、その世界観は非常に複雑で、ニヒリズムが漂っている。善と悪の境界線は曖昧で、受け手にも「複雑な正義」を咀嚼する精神的なタフさを要求する。
しかし、2020年の私たちは、そうした「曖昧さ」を楽しめるほどタフではなかった。私たちが求めていたのは、洗練された哲学ではなく、「これを倒せばすべてが解決する」という強烈な、そしてシンプルな希望だったのだ。『鬼滅』はストレートな「救済」の構造を持ち、複雑化しすぎた現代社会と、未曾有の災厄に疲弊した全世代の心に深く突き刺さった。
6. ヒットの状況とコロナの推移(比較表)
| 時期 | コロナ禍の状況 | 『鬼滅の刃』の動き |
| 2020年1-2月 | 国内感染確認、客船騒動 | コミックスの品薄が話題に |
| 2020年3月 | 志村けんさんの訃報 | 死の恐怖が具現化、物語への投影加速 |
| 2020年4-5月 | 第1回緊急事態宣言 | 配信視聴が激増、原作漫画が完結 |
| 2020年10月 | 新しい生活様式の定着 | 映画『無限列車編』公開、社会現象へ |
7. 境界線の外側で起きた「鬼化」と差別
しかし、この「絶対悪を定義し、断絶する」という構造には、目を背けてはならない暗部がある。私たちが日本国内で「鬼=コロナ」という構図に熱狂していた裏側で、世界中ではアジア人差別(#StopAsianHate)の嵐が吹き荒れていた。
ウイルスという目に見えない恐怖に直面した欧米の人々は、アジア人の顔立ちを「ウイルスの象徴(=鬼)」として定義し、排斥の対象とした。私たちが鬼を一切の対話なく討ち果たすカタルシスに酔いしれていたとき、現実の世界では生身のアジア人が「鬼」の役割を押し付けられ、暴力の対象となっていたのだ。
「敵対関係は変わらない」「敵は味方にならない」という本作のロジックは、内側から見れば「揺るぎない正義」だが、外側に向けられれば「問答無用の差別」の論理と表裏一体である。
8. おわりに:プロパガンダという名の救済
『鬼滅の刃』という現象が示したのは、私たちが極限状態に置かれたとき、いかに容易く「単純な正義」を信仰し、熱狂の渦に飲み込まれるかという事実である。
「圧倒的な分かりやすさ」と「共通の敵(絶対悪)」、そして「個人の命よりも崇高な目的(継承)」を掛け合わせる手法は、歴史上のあらゆるプロパガンダが利用してきたものだ。2020年のあの状況下では、それは人々の心を支える「救い」となったが、それは同時に「思考を停止させる装置」でもあった。
私たちがこの熱狂から学ぶべきは、物語の感動だけではない。「分かりやすい正義」が求められるとき、そこには常にプロパガンダの種が撒かれている。2020年の狂騒を振り返ることは、私たちがいつの間にか「思考を止めた信者」になっていないか、自らに問い続けることでもあるのだ。

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