不完全が美しい!? 日本のわびさびに学ぶあるがままの美学


1.最も許せない「欠点」は、自分自身

 私たちの人生は、常に「完璧」を目指すよう強いられています。スケジュールを埋め尽くし、常に生産的であれという社会の圧力が存在します。

 この圧力の下では、体調を崩して休むこと、働けないこと、そして心に傷を負うことは、すべて「欠点」と見なされてしまいがちです。そうした「欠け」を見るたびに、私たちは深く落胆し、「ダメな自分」を許せなくなってしまうのです。

 かつて、私自身もそうでした。病を得た時、「完璧に生きられなかった自分」を最も責めてしまいました。しかし、この「欠けた自分」を受け入れることこそが、心の安らぎ、そして「日々是好日」の境地に至るための最初の覚悟になると考えました。

 そして、この「不完全さへの熱狂」は、決して古い哲学だけではありません。現代のアイドル文化もまた、「完璧な存在」よりも「成長途中である未熟さ」を愛でることで、私たちに「ありのままの自分を肯定する」ことの美しさを教えてくれているのです。

 この覚悟は、日本の伝統的な美意識と禅の哲学に、深く根付いていると言えます。

2. 資本主義の圧力 vs 侘び茶の哲学

 私たちが日常で目にする商品のほとんどは、「傷がない」「均整が取れている」といった「完璧さ」を理想としています。「サボっていたら金は稼げない」「金が全て」という資本主義の原則もまた、私たちに「欠点のない人間像」を要求しているのです。

 この西洋的な「自然をコントロールし、完璧な形を創り出そうとする姿勢」は、庭園にも現れています。例えば、ヴェルサイユ宮殿の庭園(図版1)のように、

図版1
図版1

木々や生垣を直線的で幾何学的な形に刈り込み、人間の意志が自然を支配することを誇示します。

 対して、日本の精神性の根底には、「自然は抗えないもの、どうしようもないものだから、なるようにしかならない」という、自然との調和を重んじる思想があります。これは、禅寺の庭園に見られるように、自然の石や苔の配置に手を加えつつも、あくまで自然の中に美しさを見出す姿勢です。特に有名なのは、龍安寺の石庭(図版2)です。白砂の上に、配置された15個の石の内のすべてを、一度にどこから見ても見ることはできないという「不完全な美」が、見る者に静かな思索(禅)を促します。この「流されるような生き方」を良しとする考え方こそが、日本の生き方、そして自己受容の根幹にあるのではないでしょうか。

図版2

 そして、この美意識は、日本の「侘び寂び(わびさび)」において、意図的にその完璧な価値観(派手さ)とは反対の方向、すなわち(質素)に進みました。この美意識を確立し、その精神を極限まで高めたのが、千利休が確立させた「侘び茶」の世界です。そして、それを完全な形として昇華したのが古田織部です。その象徴とされるのが「織部茶碗」(図版3)です。この作品は歪な形で、完璧さというよりも偶然の美しさを表しています。

図版3

 侘び寂びは、「時の流れ」と「使用の痕跡」、「不完全」こそを愛します。そして、この美意識は、中国で生まれた最高峰の器(図版4)に対しても、「偶然性の価値」を見出しました。

図版4

 ・質素な茶碗{(黒楽茶碗)(図版5)}: 利休が愛した茶器はどちらかというと質素なものでした。

 ・歪な茶碗{(織部茶碗)(図版3)}: 古田織部が愛した茶碗は偶然性を面白がり、ありがたがる、不完全さに美を感じるものです。

図版5

 ・究極の偶然性{(曜変天目茶碗)(図版4)}: 中国・南宋時代に焼かれた曜変天目茶碗は、漆黒の釉薬の中に、夜空の星のような虹色の斑点が浮かびます。この模様は、窯の中で生まれる偶然の化学変化(窯変)によるものであり、人工的な再現は不可能です。この「再現性の無さ」こそが究極の希少性となり、この器を国宝として代々大切にしてきたのは日本の茶人たちなのです。

 ・革製品のエイジング: また、革財布、鞄、ブーツといった革製品に見られるエイジング{(経年変化)(図版6)}も、侘び寂びの精神に通じています。新品の無傷な状態ではなく、使い込まれてできた色ムラ、シワ、光沢を美しいと感じる心です。この「使い込みの美学」は、性別を問わず、「時の試練を受け入れたもの」を尊ぶ、普遍的な自己肯定の欲求へと繋がっていきます。

図版6

 侘び寂びが教えてくれるのは、「不完全なものこそ価値がある」という、すべては変化し続ける禅の「諸行無常」の哲学です。

3. 欠点を「輝き」に変える覚悟:「金継ぎ」に学ぶ自己受容

 「働けない」「サボってしまう」という、今の自分の状態を「ダメな欠点」として否定し続けるのではなく、私たちはどうすればいいでしょうか。

 私は、日本の伝統技術である「金継ぎ(きんつぎ)」(図版7)に、その覚悟の答えを見出しました。

図版7

 金継ぎは、割れたり欠けたりした陶磁器を、漆で接着し、その継ぎ目を「金」で装飾して直す技法です。しかし、あくまで、金継ぎは修復の技法であってそれに不完全さを見出し、自分を修復しようというのは西洋圏の拡大解釈であるともいえます。(註1)さらにいえば金継ぎは漆継ぎであって特に日本美術史のなかで取り上げられたりはしていません。(少なくとも私が調査したなかではですが。)しかし、そこに禅的な思想を見出し美学とするという主張にも個人的には納得できますし、その考えにも賛同できます。そして、私もそうありたいと思っています。

 ・傷を隠さない: 欠点を隠そうとするのではなく、あえて金色で強調し、それが歴史の一部だと認めます。

 ・歴史の承認: 失敗(割れたこと)を、「そこから再生した」という輝かしい物語として受け入れます。

 ・私たちの心も同じです。「働けない」という今の状態は、あなたという器にできた「ヒビ」です。それを隠すのではなく、「それが私を作った」と金継ぎの金のように受け入れ、輝きに変える覚悟こそが、真の美しさなのです。

4. 「働けない」を「資産」に変える実践:ブログという金継ぎ作業

 では、現実の焦りや罪悪感をどう解消すればいいでしょうか。私の場合は、ブログという形で「挑戦」を続けることが、心の金継ぎ作業になりました。

 ・休息の戦略化: 「休むこと」を「サボり」ではなく、「持続的に稼ぎ続けるために、ヒビを直す修復作業」だと再定義することです。これは、疲労による燃え尽きを防ぐ、最も賢い自己投資です。

 ・経験の資産化: 私が経験した「働けない」という苦しみや、「美術史」や「禅」の探求は、ブログという器を通じて「価値ある知恵」へと変わります。誰かを救う情報となれば、それは将来的に「金」という形で返ってくる「資産」になります。

 ・不完全な挑戦の承認: ブログも人生も、「まだどうなるか分からない」という不完全な状態こそが、最も美しく、未来の可能性に満ちています。結果を急がず、書くという行為そのものに価値を見出しましょう(喫茶去の精神)。

一歩を踏み出す重要性

 私は不安になりことが度々あります。どこまでブログを書いても、この社会が「働けない」自分を受け入れてくれるのかということに。結局、働かないと安定的な収入は得にくいのです。それは資本主義である以上仕方のないことなのです。

 ですが、一歩を踏み出す。これは非常に重要なことだと思います。何でもいいから踏み出す。それが何かにつながるのだと思っています。

 古来より、この「不確実な世界での一歩の苦しさ」は、禅画のモチーフにもなってきました。例えば「座頭渡橋図」では、目が見えない座頭が、たった一本の杖を頼りに、いつ落ちるか分からない橋を渡る姿が描かれています。これはまさに、自分の行く末も、自分の心も完全に分からない中で、それでもなお、「生きていくしかない」という孤独な覚悟の象徴です。

 この感動的なシーンで歌われた曲を、一切の誤魔化しが許されない「THE FIRST TAKE」で披露しました。(YouTube: 如月千早 – 約束 / THE FIRST TAKE)この姿を見てアニメのシーンを思い出し、「不器用ながらも生きていく、一歩踏み出す勇気」が自分を認めることに繋がるのだと強く思いました。このブログへの挑戦も、その「一歩」です。

生きるということ

 これまで、日本の文化を通して「自己受容の美しさ」を説いてきたが、こうは思わないだろうか。「それって結局、単なる綺麗事じゃないか?」と。私もそう思います。だから、もう一度私なりに考えてみました。その結論はそれが”生きるということ”なのだということです。

 そもそも私たちは、他人のことなど究極的にはわかりません。自分の心がなぜ不安になるのかさえ、完全に理解し尽くすことはできません。如月千早さんの物語が脚色されたものであろうと、その真実を私たちが知ることはできないのです。

 しかし、この「分からない」という曖昧さや不確実さこそが、人生の深みであり、古田織部が茶碗の歪さを愛したように、その「どうしようもない偶然」を静かに面白がるスタンスが大切だと考えます。

 そして、この静かに不確実性を面白がるスタンスは、現代の極限の舞台、例えば、日本人メジャーリーガーが体現する「禅の精神」(諸外国の方が言うには)にも通じています。(註2)

 彼らは、結果(ホームランを打てるか、勝てるか)というコントロールできない不確実性を気に病むのではなく、「ただ目の前の球に集中する(喫茶去の精神)」という、自分の行動だけに集中する諦観を持ちます。この「一球入魂」の姿勢は、不確実性の中で自分のパフォーマンスの不完全さを受け入れ、その挑戦を静かに面白がる、現代の侘び寂びの実践と言えるでしょう。

 「死にたい」や「考えすぎて辛い」、「不安になる」だとかを考えてしまうのはそもそも私たちが人間だから、人間である以上考えずにはいられません。人間はただ生きるということが出来ない面倒臭い生き物なのです。それを受け入れるしかないのである。そして、その「考えすぎてしまう」というのも一つの才能であり、持って生まれたものです。それを変えることなど出来ません。そしてそれを諦めながら受容する。この一種の諦観こそが本質的な自己受容なのだと思っています。一見するとネガティブかもしれませんが、ポジティブでもあるという解釈も出来ます。私たちは残念ながら生きていくしかないのである。

おわりに:諦観の先にたどり着く、あなたという「一点もの」の美しさ

 私たちは、人間である以上、「考えすぎてしまう」という面倒な宿命から逃れられません。「働けない自分を許せない」「この努力は無駄ではないか」と悩み続けることは、私たちの持って生まれた才能であり、性(さが)なのです。

 しかし、侘び寂びの哲学が教えてくれるのは、まさにその「どうしようもなさ」を、諦めながらも受容するという覚悟です。傷を負い、完璧ではいられない自分という器を、金継ぎの精神で受け入れる。この諦観こそが、私たちの本質的な自己受容に繋がるのです。

 この世に「完璧な器」は存在しません。そして、金継ぎが教えてくれるように、傷のない人生もありません。

 あなたの不完全さ、休息を求める心、そしてブログという「不確かな挑戦」こそが、あなただけの物語を刻んだ、どこまでも美しく、価値のある「一点もの」なのです。

 「ダメな自分」を受け入れ、その欠点を金に変える覚悟を持った時、あなたは真の「日々是好日」の境地へとたどり着くでしょう。

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