4.現代を生き抜くために-私の経験を通して-
情報過多時代の「心の松林図」
長谷川等伯の『松林図屏風』が画面の半分以上を空白にしたように、現代を生きる私たちに必要なのは、意識的な「情報の余白」の創造です。私たちは日々、SNS、ニュース、仕事の通知といった無数の刺激によって心が満たされ、不安や焦燥感が生じる隙間さえ失っています。
心の松林図を描くとは、デジタルデトックスという単なる行動ではなく、「何もしない時間」を、意識的に最も価値のあるものとして扱う哲学です。必要なのは、情報から離れ、自分の内側の静寂に耳を澄ませる勇気です。とはいえ、スマホを断つというのは非常に難しい行為です。気付いたら触ってしまう魔的なツールです。かくいう私もスマホ断ちなどは出来ません。しかし、就寝時間だけでも物理的に離す。(枕元には置かず、離れたところに置くとか)私は就寝前は意識的に寝室にある机の上に置くようにしています。それだけでデジタルデトックスになるのです。すると、朝にスッキリ起きることが出来ると思います。
諸行無常を「変化への受容」に
現代社会のキャリアや人間関係は流動的で、変化に対する不安が常に付きまといます。しかし、仏教における「諸行無常」の思想は、この不安定さを否定するのではなく、「すべては移り変わるものだ」という真実として受け入れることを教えます。
変化を「敵」として恐れるのではなく、「本質」として受け入れることで、私たちは目の前の不安な状況にしがみつく必要がなくなります。これは、心のエネルギーを「固定」に費やすのではなく、「流動」に適応させるための知恵です。つまり、「こだわり(執着)」を捨てることが重要だということです。仏教ではこだわりは良くないものだとされているので、積極的に手放すことを推奨しています。ただ、そう言われてもなかなか難しいとは思います。そもそも誰でも出来るのであれば、わざわざ宗教にする必要などありません。人間にとってそれが非常に難しいからこそ仏教という宗教が出来ているわけです。人間は弱いもの。それを受け入れることが大事なのです。かくいう私も適応障害となり、仕事を続けることが困難となっています。それでもそういう自分を受け入れ、愛することが心の安寧につながるものだと思っています。今、こうやってブログを運営することが出来るようになったのもそんな自分を認めたからだと思っています。
「もののあわれ」とマインドフルネスの実践
過ぎ去るものへの哀愁を意味する「もののあわれ」の美意識は、一見ネガティブに聞こえますが、禅の哲学と結びつくと「今この瞬間への感謝」へと変わります。満開の桜が散る瞬間の美しさを見つめるように、日常の小さな喜びや、過ぎ去る自分の感情を慈しむこと。
これは、現代のマインドフルネスの実践と深く通じています。過去や未来の不安ではなく、今この一瞬の経験に心を集中させることで、心の雑音から解放され、平穏を取り戻すことができます。毎日、坐禅をするのは大変だと思います。ですから、就寝前に横になり、目を閉じてゆっくり息を吸って吐いてを繰り返す。これに意識を集中させる。という一連の行動を3分でもいいので毎日やってみる。これだけでも就寝しやすくなりますし、心がスッキリします。注意事項として専門家の指導がない状況では長時間はやらないようにしましょう。なぜなら、「野狐禅」という状態(魔境ともいう。)になる可能性があるからです。この状態に陥ると心が落ち着く所か幻覚や幻聴が見える恐れがあるのです。そこは気をつけるようにしましょう。
「侘び寂び」と「ミニマリズム」の融合
簡素さ、静寂さの中に美を見出す「侘び寂び」の思想は、現代のミニマリズム哲学に通じています。不要なモノ、不要な情報、不要な人間関係から自らを解放し、本当に価値のあるものだけを残すこと。
松林図の墨絵が筆の数だけ価値を持つように、あなたの人生も、少ない要素(本当に大切な人間関係や趣味、目標)によって、かえって深く、豊かになるのです。
